Column

映画『セールスマン』のなりたち

遠山純生(映画評論家)

本作『セールスマン』を一緒に作ったアルバートとデヴィッドのメイズルス兄弟、およびシャーロット・ズワーリンは、その前年にノンフィクション・ノヴェル『冷血』を発表して一躍時の人となった作家トルーマン・カポーティをめぐる短編記録映画『A Visit With Truman Capote (トルーマン・カポーティ訪問)〈別題『トルーマンより愛を込めて』〉』(66)を作り上げていた。どうやらこの映画を作る際にカポーティに取材したことがきっかけとなって、兄弟はカポーティが文学で成し遂げたことを映画の領域で探求してみたいと考え始めたようである。つまり二人は、劇的構造であるとか登場人物を重視する姿勢においてはフィクションに似ているのだが、キャメラがその場でとらえた実際のできごとに基づいている点ではノンフィクション的な語りを作り上げることを欲していたのである。けれどもそれを実現するには、相応しい主題を見つける必要があった。実際に起こった一家四人惨殺事件が小説『冷血』の起動力となっていたように、興味深く刺激的な映画になりそうな「プロット」が必須だった。それから間もなくのこと、カポーティの小説の版元であるランダムハウスの腕利き編集者ジョゼフ・M・フォックスが、デヴィッドに巡回セールスマンを映画に撮ってみてはどうかと提案する。兄弟はこの提案に興味をそそられた。理由の一つとしては、二人は若い頃に短期間、ブラシや百科事典の戸別訪問販売員として雇われたことがあったからである。けれども兄弟は、自作のなかで販売される物品にはなにか大きな象徴的含みを持たせる必要があると結論づける。観客の好意的な反応を引き出すためだ。この判断を踏まえ、彼らは最終的に聖書販売を主題とすることに決めた。聖書販売こそ「現代のメタファー」だと考えたのだった。

アルバートは述べる。「聖書は“アメリカ人たるべきこと”をめぐるイデオロギーを代弁する」ものであり、映画『セールスマン』は、「こうしたイデオロギーとわれわれの物質主義的な生活様式との衝突だ。この衝突は、聖書販売員たちに彼らの商品を売ることを止めさせるほど充分激しいものではない。購買者たちはそれを衝突とみなしていないことが、今の時代ならではのネタなのだ」と。

要するに『セールスマン』は、物質主義が宗教の領域にさえ浸透している現状、宗教とビジネスの組み合わせ──ある意味“変わった”組み合わせ──に焦点の一つを当てている。アルバートによれば、作中に登場する四人のセールスマンは、自分たちの仕事を嫌悪していた。訪問先の人々の大半は低所得者層で、彼らには高価な聖書を買う余裕などないにもかかわらず、販売員たちは半ば強引に購入させるわけであるが、実のところ人々は聖書の精神的内容ではなく掲載された数々のカラー写真やぜいたくな装丁に惹かれて購入していたからである。もっとも、少なくとも作中では、四人のセールスマンはみな上司の販促をめぐる非情な叱咤を受け容れているかに見えるし、会社が自分たちの人間性をむしばんで、ただの販売機械へと変貌させることで、人々を言いくるめ、時には騙してまで商品を購入させるための環境づくりをおこなっていることを非難することもない。

ともあれ企画を決定し、いくつかの会社で説得を試みたのちに、メイズルス兄弟はシカゴのミッドアメリカン・バイブル・カンパニーの許可を得て、四人からなる外交販売員チームの巡回販売を六週間以上にわたって(一九六六年から六七年にかけての冬に)追いつつ、彼らの行動を撮影=録音できることになった。撮影に際しては、もちろん各家庭の購入(予定)者たちの許可もとっている。キャメラを廻したのは兄アルバート、録音を担当したのは弟デヴィッドである。時に二台のキャメラが廻されることもあり、その場合もう一台はハスケル・ウェクスラーが操作した。撮影時、兄弟は各家庭の戸口で、その家の住人に、「自分たちは視聴者の興味をそそるニュースを撮っている者だ」とのみ述べたそうである。ちなみに彼らは、市井の人々の自宅に上がり込んでその生活ぶりを記録することにも強い関心を寄せていた。

ところでメイズルス兄弟は、この『セールスマン』で、かつて属していたドリュー・アソシエイツのやり方から離れ、ダイレクトシネマの限界を拡張しようとしていた。実のところ一九六〇年代初頭以来、二人はその可能性を探っていたとのことであるが、その過程で出会ったのが、ニューヨークで小規模製作映画の編集を手がけていたデトロイト出身の若い女性ズワーリンだった。『セールスマン』の場合、全部で一〇〇時間近くにおよんだ撮影素材に一貫性のある物語構造を備えさせ、より意義深く興味深いものとした功績は、デヴィッドの監修のもとで編集を担当したズワーリンに帰せられる。『セールスマン』の前後に製作されたメイズルス兄弟の映画に、いずれも兄弟と並んで彼女の名が監督としてクレジットされているのは、これらの作品が三者の構想力の結合体であることの証左だ。「限界の拡張」がいかなるかたちで実現されたかにかんしては、以下で具体的に確認していこう。

続きはご鑑賞後のパンフレットにて

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